【十人桐色2026】#33 「逆境・挫折には全て意味がある」伊佐昂大

皆さん。こんにちは。男子長距離ブロック4年伊佐昂大です。

まず、何者でもない私が今回このような素晴らしい機会を頂き大変嬉しく光栄に思います。私はこの企画が大好きです。今でもある男の文章を定期的に読んでいます。頭が良くない私の文章能力を最大限発揮した拙い文章ではございますがお手隙の時間に最後まで読んで頂けたら嬉しいです。

私はこの”十人桐色”という企画に何度も救われました。進むべきレールから外れそうになった時に何度も引き戻してもらいました。

だからこそ私の人生を振り返りつつ、私の逆境・挫折を乗り越えた経験を通して感じたことを勝手ながらお伝えさせて頂きたいと思います。今何かに苦しみ逃げ出したくなっている方へ今度は私が何かを与えられれば嬉しい限りです。

初めに軽く自己紹介させてください。

私は新潟県見附市出身。田舎っちゃ田舎っていうレベル感の環境で育ちました。

皆さん長岡花火はご存知ですか?私の地元の隣町で、日本三大花火の一つとして称されています。死ぬまでに一度は見てほしいものです。

肝心の陸上競技・長距離は中学1年生から始めました。それまでは柔道→野球→陸上競技という感じです。

柔道は誘ってくれた子が私が入った瞬間に辞めてしまい良い思い出があまり無いのでスキップします。

では本題です。

挫折① 陸上競技への道のり

父と兄の背中を追い、小学2年生で野球を始めましたが、この面白さが本当に衝撃的でした。私は本当に野球が大好きでした。部活以外に放課後は家の前で壁当て(ボールを壁に投げまくること)、休日は親とピッチング練習、大会後のチームの宴会は一次会でおさらばし帰って父と素振り。しまいには家の畑にマウンドまで作ろうとしてしまいました。(婆ちゃんに止められましたが)とにかく本当に野球バカだったと思います。もちろん将来の夢はプロ野球選手でした。

しかし、小学6年生の最後の大会前に左肘を“剥離骨折”してしまい投げることが不可能になってしまいました。

小学5年生からエースナンバーを背負わせてもらった私は最後の大会には誰にも負けない強い気持ちがありましたし、当時のことは今でも思い出したくないくらい辛い出来事でした。ちょうどその時野球漫画で有名な「MAJOR」にハマっていました。主人公の茂野吾郎は右投げのピッチャーでしたが、右肩を怪我してしまったことにより左投げに転向しそれでもメジャー進出を果たしたお話です。

それを見た瞬間、ビビッと来ました。まだ諦めるには早いのではないか。そんな背景から私も右投げに転向し、死に物狂いで練習しました。後悔のない形で野球を終えたかったからです。当然最初はうまく行きません。投げたいところに投げれない、スムーズに捕球し送球も難しい。人生初のトンネルだって味わいました。(股の下をボールが通過する事。)あの時は強い屈辱を覚え、とてつもない悔しさが込み上げてきました。私はある意味大谷翔平選手よりも早くから偉業を成し遂げようとしたのかもしれません。もちろん失敗でしたが、、。

最後の試合は右投げ左打ちでファーストを守りましたが結果は2回戦で敗退でした。そんなこともあり野球から強制的に離れることになった私を待ち構えて居たのが陸上競技・長距離という道でした。

挫折②〜筑波大学への道のり〜

ピッチャーとして別メニューで走り込まされていた私は気づかぬ内に出来上がっていた体力基盤を元に中学1年生から高校3年生の春まで毎年自己ベストを更新することが出来、インターハイ決勝・県高校記録更新も遠くはないレベルにまで成長することは出来ました。

インターハイに出場するには、地区大会→県大会→地方大会→全国大会というフローがあり、勝ち上がらなければいけません。そんな時です。地区大会2週間前にまたもや私に押し寄せてきたのは「左大腿骨疲労骨折」でした。絶望でした。高校3年間掲げてきた全国大会の決勝を目指していた最中の出来事で、当時の自分は頭がおかしくなってしまいました。陸上競技や自分を何度恨んだか数えきれません。

「俺の競技人生はここまでか、、」と。

診断を受けた帰りの車は父と2人。涙が溢れる自分になんて声をかければ良いかも分からない父親とのあの時間は本当に地獄でした(笑)今では笑い話ですけどね、、。

少し話が変わりますが高校2年の秋から恩師が叶えられなかった夢を叶えるべく同じ筑波大学・駅伝部で私も箱根駅伝を目指したいという気持ちを持つようになりました。

だからこそ、すごく悩みました。私は大して頭が良いわけではありません。筑波大学に進学するには莫大の時間と努力が必要になります。ここで諦めて(高校3年生の4月末)受験勉強に徹するか。それでも諦めずに全国大会を目指し筑波大学の推薦を狙うか。当時の自分はこの選択が人生を決めるとも思っていました。(当時の自分は高いレベルで二頭を追いかけられるほど優秀ではありませんでした。もちろん自分なりに文武両道は体現してきたつもりでしたが。)

そこで恩師からの助言もあり私は今まで専門としていた1500mと5000mからは離れ、一から3000m障害に転向しインターハイを目指すことにしました。3000m障害なら多少選手層が薄くなるため勝ち進められる可能性が広がると思ったからです。

ほぼ毎日接骨院に通ったり、脚に効くのかどうかも分からないジェルを飲み続けたり、治療器を病院から借りてひたすらやったり、プールで何時間も歩いたり、。もうとにかくやれること全て行いました。

沢山の支えや励ましがあり、無事に大幅自己ベストで全国大会を決めることが出来ました。インターハイ本番は失格になってしまいましたが、、(爆笑)

そして憧れの筑波大学の門を叩くことが出来ました。

長いですね次が最後です。

挫折③〜箱根駅伝への道のり〜

実は自分が1番苦しかったのは筑波大学に入学してきてからです。

1年目からバリバリ箱根駅伝予選会を快走し、チームに貢献するつもりでしたし、その責務が自分にはあると思っていました。しかし現実はそう甘くありません。練習量に体が追いつかず、走っては故障の繰り返し、1年目の夏には夜も全く眠れなくなりました。そんな自分とは対照的に記録を伸ばし続ける同期やみるみる力をつけてくる後輩の存在に自分を責めてしまうことが増えました。過去の自分が私を嘲笑うかのように、何度限界を感じさせられたか分かりません。

そんな中でも大学2年目の秋でチャンスが訪れました。やっとの思いで練習を継続することが出来、史上最強の自分で箱根駅伝予選会に出走させて頂くことになったのです。正直自信はありました。

しかし結果はチーム内11番目。自分の走りがチームの勝利に何一つ貢献することなく終わりました。むしろチームのお荷物でした。(秘密兵器枠として評されていましたが、本当に秘密のまま終わってしまいましたね。)ルーキーズの平塚っぽい感じです。(野球が好きな人なら分かるはず笑)

走り終わった後は、「もう二度と走りたくない」とも思いました。もう一度あの場を走りチームに迷惑をかけてしまうかもしれない。と予選会を走ることが怖くなってしまったのです。”駅伝”というものを経験したことがなかった私は、自分の走りがチームに良くも悪くも影響を与えるという現実を受け入れることにすごくやりづらさを感じてしまいました。

メンタルが弱すぎます、、。笑笑

疲れることが好きではない私は今までの走れば走るほど記録が更新されることでしか長距離の楽しさを見出せていませんでした。中々大きな飛躍を遂げることが出来ず、「推薦生なのにな」と小声で言われることもありました。やっぱり自分じゃない方が良かったのではないかと、、。「私の存在意義は陸上競技でしか示すことは出来ない。」そんな葛藤が伸び悩む自分を苦しめ、陸上競技から目を背けたくなってしまいました。

この3つが私の挫折・逆境の経験です。

総じて私が伝えたいことはそんな中でも挫折や逆境には全て意味がある。意味があった。ということです。

あの時、肘を怪我しなければ陸上競技を始めていなかったと思います。あの時脚の骨が折れなかったら3000m障害をやることはなかったですし、筑波大学に進学できたかどうかも分かりません。インカレだって出場することは出来ませんでした。あの時あの一瞬の苦しみが振り返れば今の自分を形づくり、進むべき道への後押しをしてくれています。

今何かに伸び悩んでいる人、将来に不安を抱えている人、何もかも上手くいかない人。

どんな時もその苦しみや困難には全て意味があり、報われる瞬間が来ます。例え報われなくてもそこまでの過程やその時の自分の選択に感謝することが出来るようになると思います。挫折や逆境に意味を見出せるかどうかは自分次第ですし、その後の展開はいくらでも筋書くことが出来ると私は信じています。

ちなみに、挫折③に関してはまだ何一つ意味を見出すことが出来ていません。だからこそ私も今を乗り越えないと行けないのです。その挫折に意味を見出すには”箱根駅伝出場”しかないと思っています。そして予選会でチームの勝利に貢献し、10年間陸上競技を続けてきた自分を裏切ることなく納得した形で引退したいと強く思っています。

アスリートの最大の痛みは「あの時もっと頑張っていたら良かった」という後悔です。痛みに強くない私はそんな苦痛死んでも味わいたくないので、今日も明日も最高の仲間と共に切磋琢磨していきます。

長い長い私の文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。書いてみたら本当に拙い文章となり、申し訳ないです。私の経験や想いが少しでも誰かの支えになってくれたら嬉しいです。ありがとうございました!!