皆様、はじめまして。
体育専門学群3年、男子長距離ブロックの小山陽生です。
まず、何者でもない自分がこのようなブログを書くという貴重な機会をいただけたことに感謝しています。遠くの誰かの励みや支えになれたら嬉しい限りです。
ちょうど今、筑波大学4年・駅伝主将である弟と共に挑む最後の箱根駅伝予選会が迫っています。3年目にしてやっと2人でエントリーに名を連ねることができました。最初で最後です。
???
お気づきの方もいらっしゃるでしょう。おかしいですね。
そうです。2歳下の弟が先輩なのです。
私がぼけーーーっとしている間に追い抜かれてしまいました。
私は、2001年生まれ、今年で24歳。
実質3浪で筑波大学に入学しました。
将来を見据え、真っ当に生きてきた弟とは見た目や性格はもちろん、人間的に根本の部分から正反対です。私と同じには見られたくないはずなので間違えずに覚えていただきたいところです。
弟の手足が長くスタイリッシュな体はまさに長距離ランナー。
夏休みの宿題は計画的に終わらせるタイプ。
ギリギリを嫌い、下手な冒険はしない。
私は、中肉中背。長距離は速そうにない。
計画はあっても無視。今の楽しいことを優先。
スロースターター。常にギリギリを攻め、一か八か、下手な冒険を面白がってしまうタイプ。
という感じでしょうか。
こういうことを勝手に話すと怒られそうなのでこのあたりでやめておきます。
(左側手前が弟/主将の小山洋生、その右奥が兄/後輩の私)
今回も例のごとく、ギリギリを攻め、原稿の提出期限はいつだったか。。。
「多忙な有名作家のようだ」なんて思いながら執筆していますが、そんなに素晴らしいものは書けるはずもありません。拙い文章になるとは思いますが、最後まで読んでいただけると幸いです。
前置きから長くなりましたが、私の遠回りな人生を振り返りつつ、「いま、筑波大学で走ること」について書いていこうと思います。
Chapter1
私の遠回り人生が始まったのは高校1年生の冬のことです。
埼玉県·所沢市出身。埼玉県の公立高校に進学し、陸上競技·長距離を始めました。
(小学1年生から中学3年生までの9年間は剣道をしていました。)
『駅伝』への憧れからです。
当時は3000m10分台の選手でしたが、登校時間もギリギリだった私は、毎朝のタイムトライアル(駅→学校)のおかげでメキメキと力を付けていきました(?)。
競技力が向上すればするほど、上には上がいることに気づかされるものです。箱根駅伝に出場するためには、『5000m·14分台、全国高校駅伝出場』は当たり前の世界。当時の自分は実績·覚悟ともに、そこにはとても辿り着かないレベルでした。
そこで、高校を辞めることにしたのです(?)
『5000m·14分台、全国高校駅伝出場』を目標に、自分の中で覚悟を決めるためです。両親も中途半端な私を見限って、快く家を追い出してくれました。島流しです。
流れ着いた先は『フクイ』というところでした。日本海に面した小国。
正直、関東人からすれば、47都道府県で1番縁のないところ、と言っても過言ではありません。
いじりすぎました。すみません。
2024年に北陸新幹線が敦賀駅まで延伸され、東京から乗り換えなしで行けるようになったのでぜひ次の旅行先にいかがでしょうか。(当時は自動改札機もなかったのに大出世ですね。)
そんなこんなで、高校2年の4月、福井県·美方高校に編入させてもらうことになりました。
福井県は美浜町、想像をはるかに超える田舎さで、カルチャーショックでした。電車は1時間に1本ないくらい。薬局まで5km。休日、図書館でWi-Fiを繋ぎ、ドラマを見ることが数少ない楽しみでした。タイムスリップしたかのような2年間だった気がします。学校はあまり好きではなかったのですが、、今となっては、素敵なところで高校生活を過ごすことができたなあと感じています。
陸上競技に話を戻すと、この2年間、決して順調に記録が伸びたわけではありません。調子が上がらずレースに出させてもらえないこともありました。苦しい練習もたくさんありました。「ダボスには神様がいる」でお馴染み、夏の合同合宿は夜も眠れないほどの恐ろしさでした。
それでも高校3年時には、『5000m·14分台、全国高校駅伝出場』という目標を達成することができました。ダボスの神が味方をしてくれたのかもしれません。本来出会うはずのなかったたくさんの人に出会い、自分の限界を感じさせられたり、もっと挑戦したい気持ちになったり、今も競技を続けているのはこの2年間があったからだと感じています。良くも悪くも今につながっています。
(ただ高校は辞めないほうがいいと思います。というよりも、よく考えて高校を選ぶことがとても大事です!)
目標のラインに届き、箱根駅伝への挑戦権を得られたと感じた私は、箱根駅伝初出場に最も近いと言われていた大学に進学することになります。
Chapter2
ここからが遠回り本番といったところですが、2020年、コロナウイルスの流行が重なっていたこともあり、ほとんど思い出がないので簡潔に記そうと思います。
勉強を放棄して陸上競技一本で大学へ進学した私を待ち構えていたのは「アキレス腱」の故障でした。
痛みを抱えながら、誤魔化しながら練習を続ける日々。5000mのPBは更新できたものの、気持ちよく走れたのは数えるほどでした。
陸上競技だけを目的にして入ったと大学で、走ることもままならない。学部の選択肢はなかったため学びたいことを学べるわけでもない。憂鬱な日々に、将来への不安も募り、脚を治す気力も、陸上競技に対する情熱も薄まっていきました。
そこで大学を辞めることにしました。大学2年目の夏のことです。(2021年夏)
こんなところで諦めていいのか、後悔するぞと言われたり、たくさんの反対意見をもらったりしましたが、辞めて良かったと思っています。
(半ば強引に逃げ出してきてしまったことに対する申し訳なさはありますが。)
「続けること、最後までやり抜くことが大事」とされることが多いですが、「辞めていいときもある」と私は思います。気持ちが伴わず、何となく続けた先に成長も意味もないからです。好きだと思えること、楽しいと思えること、常にワクワクできる道を選び続けることが大切だと思います。選択を間違えたとしても、いつかどこかでそのマイナスを相殺して、かつ上回る瞬間がくるような気がするのです。
Chapter3
さて、もうすでに長いですね。まだ過去の話なのに。
陸上競技の道を諦めたので、せめて学びたいことを学べる環境へ、ということで勉強を始めました。勉強をせずに走る生活から、走らずに勉強をする生活へと180度方向転換。これはこれで、びっくりするほど苦痛でした。世の中はそんなに甘くありません。今度は受験というものの厳しさを突きつけられました。
そして受験期間の中で学んだことはただひとつ。
『私は1日中座っていられないということです。』
体を動かさなくなると、生活のハリがまるでなくなることが分かりました。
「マグロは止まると死ぬ」と言われますが、それと似たようなものでしょうか。
あり余るエネルギーを元手に、自転車で出かけてみたり、公園の遊具で遊んでみたり、散歩、野球なんかもやりました。勉強もしていたはずですが。多分。
筑波大学·体育専門学群を志望校に決めたのは、
当時1年生だった弟が箱根駅伝予選会に出走した後のことです。
血が騒ぎました。自分が諦めた、箱根への道を突き進む彼を見て。
外に出て、ひさしぶりに全速力で走ってみました。
そうしたら痛くなかったんです。アキレス腱が。
そこで体育専門学群を受験することに決めました。
「学業」と「競技」とを高いレベルで両立することを目指す筑波大学の理念が自分の理想とするものであったことはもちろん、自分自身がもう一度箱根駅伝へのチャレンジができると感じたことが決定打になりました。(学力的に体育専門学群にしか届かない部分もありましたが。)
細々と練習を再開し、共通テスト·二次試験を受けて、無事、
2023年4月、筑波大学·体育専門学群に入学することになりました。
受験生としての私はなかなかひどいものでした。
恥ずかしながら、勉強をスタートしたとき、共通テスト模試で50%もありませんでした。
得意科目を伸ばすことだけに注力し、やりたくない苦手科目は放棄。
古文にいたっては前日にマークする番号を決めておきました。全部①にしました。
どうせ分からないので勉強は一切せず、試験時間も全てを現代文·漢文に使いました。
こんな私でもなんとかなったので、きっと多くの方は大丈夫です!
体専であれば、共通テスト70%台、実技は人並みで合格できるはずです。
共通テスト50%台で合格を掴み取っている学生もいたりするので、最後まで諦めず特攻することも大事だと思います。
Chapter4
さて、ここまで長くなりましたが、やっと筑波大学に到達です。
ここからがいよいよ本題です。
私が1番苦しかったのは、実は、筑波大学に入学してからです。
やっと自分の理想としていた環境で「学業」と「競技」ができる。ブランクはあるけれど、今まで通り走れれば必ず戦力になれる、という思いで入学しました。
しかしそんな思いとは裏腹に、ここまでの2年間は思うようにいかないことばかりでした。2度の大腿骨疲労骨折をはじめ、股関節に膝、シンスプリント、肉離れ。走っては故障、走っては故障、を繰り返し、半分以上まともに走ることができませんでした。周りは高校時代に本格的なトレーニングを積んでいない学生ばかり。伸びしろたっぷりであっという間に置いていかれました。スポーツを科学する環境で、フォームや筋肉が良くないと言われ、自分の能力を数値化すればするほど限界を感じるようになりました。もうダメだと思いました。また何度も辞めようと思いました。チームの先頭を走り続ける弟とは対照的に、「堕ちたな」誰もがそう感じていたと思います。体重は増え続けましたが。
2025年1月2日、弟は青桐を身に纏い、箱根駅伝を走りました。
夢の舞台に立つ彼を見て、自分のことのように嬉しかったです。美しかったです。そして悔しさもまたありました。「自分は何をしているのだろうか」彼の姿を見て、スイッチが入った気がします。それまでも決してオフだったわけではありませんが、こういうところがスロースターターたる所以なのでしょう。もし短距離選手だったらフライングだけはしないでしょうね。
「走れないベテランはチームのお荷物。今年結果が出せなければ選手を辞めます。」
そう皆の前で宣言をして、一段違う覚悟で、3年目がスタートしました。
母がくれた健脚守りのおかげで(?)大きな故障なく練習が積めるようになりました。きちんと準備をしてレースに挑むこともできました。しかし、狂った歯車は簡単には元に戻りません。練習が継続できるようになっても、思うように走れない日々。レースの結果にまでつなげることができず、高校時代のPBを超えることもできませんでした。昔は、、あの時は、、と「過去の自分」が背後につきまとい、蔑んだ目でこちらを見ているようでした。もうかつてのようには走れないかもしれない、引退を決断するアスリートはこんな感じなのかもしれないと思ったりしました。
それでも必死にしがみついてきました。最近は、考える力、自分の体と対話する力が少しずつついてきた気がしています。メンタルトレーニングをしてみたり、パワースポットで神様にお願いしてみたり、鏡の前で「お前ならできる」と唱え続けてみた日もありました。どれも効果があったのかはわかりませんが、初めて夏を超えることができました。ここまで本当に長くかかりましたが、いよいよ完全復活への兆しが見えてきました。トンネルの出口はもうすぐです。
何度も心折れながら、なぜこうして今も走り続けるのか。
その答えを最後に記してこのブログを締めくくろうと思います。
Chapter5
私は、走るのが好きです。好きすぎるくらいです。
好きすぎて、嫌になったり、逃げ出したくなったり、情緒不安定になることもあります。どこが好きなのかはもうよく分かりません。禁断症状なのでしょうか、走らないと体も心もおかしくなります。おそらく、中毒、依存です。
しかし、ただ「走るのが好きだから」それだけなら競技からは離れている気がします。
「箱根駅伝への憧れ」だけなら大学を辞めたりしません。
箱根駅伝を創始したのは、筑波大学の先輩、金栗四三さん。筑波大学の前身、東京高等師範学校は第1回箱根駅伝の優勝校でもあります。古豪復活。名門の箱根路返り咲きは最高のシナリオです。
加えて私たちは、無名集団です。多くの私立大学とは異なり、高校時代まで実績のない選手がほとんどです。それでも箱根駅伝へ同じ思いを持ち、一般入試を突破して集まった仲間たち。叩き上げ集団が紡ぐ下克上物語もまた最高のシナリオです。
筑波大学の「自律したスカラー·アスリートの育成」という理念のもとで、「自分の頭で考え、自分自身をマネジメントしていく力」を育み、高いレベルでの文武両道を実践しながら、最高のシナリオを実現していくこと。それこそが筑波大学で箱根駅伝出場を目指す魅力であり、4年間を捧げるだけの価値があるものだと考えています。
『筑波大学で箱根駅伝予選会を突破する』
この魅力と価値が私を突き動かしている要因のひとつです。
そして何より、『周りの人たちのおかげ』でここまで走り続けることができています。
やはり1番は弟でしょうか。彼の長距離向きの骨格と、ひたむきに努力できる姿を前に、何度限界を感じさせられたかわかりませんが、ほぼ同じ遺伝子の彼が学生歴代20位なら私も200位くらいならいけそうだと思わせてくれました。正直、兄弟の絆みたいなものはありませんが、彼を追いかけて筑波大学に来て、彼が思い描くチームの戦力、その一部を担いたいという気持ちでここまで来たものの、きっと期待外れでした。だからこのままでは終われないのです。
また高校を辞める、大学を辞める、筑波大学を受ける、破天荒な生き方を快く(?)受け入れてくれた家族です。特に母の頭がおかしくて良かったです(良い意味で。)普通は怒られる気がします。もちろん殴り合いの喧嘩をしたこともありますが、今はやりたいことをやりたいようにやらせてくれてとても感謝しています。最近は「若い頃の数年なんて大したことないじゃないか」とみんなが口を揃えて言うようになり、自由に生きることを許容されていると感じます。そして今年の夏、最後の最後に力を与えてくれたのは、競技場に応援に来て、元気に走る姿を1番に喜んでくれる祖父です。1番厳しいですが。応援してくれる分、良い結果を報告したいと思っています。
高校の恩師もまたその1人です。私は勝手に第2の父のように思っています。どん底のとき、何度も助けてもらいました。高校時代の経験が壁になることもありましたが、高校時代の経験が支えになってきた部分の方が大きいです。あのとき楽しいと思わせてくれた陸上競技を続け、あのときやっていたことが間違っていなかったことをこの身をもって証明することが感謝を伝えることになると思っています。
自分のため、筑波大学だから、周りの人のおかげ、それらが絡み合って今があります。自分のためだけならもうとっくに辞めていたかもしれません。家族、恩師、友達、今まで支えてくれたたくさんの人が、苦しいときも私を繋ぎ止め、もっと頑張ろうと思わせてくれました。そして元気に走る、良い結果を残すことで恩返しをしたい。そんな気持ちが私を走り続けさせています。まあ、走っているときはきつすぎて、こんなことを考える余裕はありませんけどね。
Chapter6
最後に、競技を続けていく上ではもちろん、何事においても、1番大切なことは「自分を信じ続けること」だと感じています。
私は、ずんぐりむっくり体型、体力測定しても平凡、毎日コツコツが苦手、モチベーションに波あり。きっと天性の才能なんかありません。
だから基本的には、上には上がいます。
練習をしなくても速いやつ。
大して体をメンテナンスしないのに故障しないやつ。
明らかに骨格が抜群なやつ。
生理学的機能が異常に高いやつ。
レースセンスが光るやつ。
ものすごいガッツを持ち合わせているやつ。
競技を長く続ければ続けるほどこうした才能あふれる選手に出会うことは多くなります。自分との対比の中で、段々と自信を失っていくのが普通です。でもそこで「自分ならきっとやれる」という思いで日々やるべきことを積み上げ続けることが重要だと考えています。報われない努力もあるかもしれませんが、人間どこで伸びるか分かりませんから。ただどこかで報われると信じて突き進むしかないのです。どうしても辞めたくなったらそれはそれでOKですけどね。
楽しんでいただけたでしょうか。
無名大学生の自叙伝が有意義なものになればとても嬉しいです。
もしならなくても、それもまた人生。という感じです。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。
最後に、高校の恩師の言葉を借りて。
『本気になったらなんでもすぐです。』
私の陸上人生はまだまだこれからです。
完全復活の3年目、そして大飛躍の4年目になるように。
打ちますよ。逆転サヨナラ満塁ホームラン。