皆さんおはようございます、こんにちは、こんばんは。投擲ブロック4年の遠山莉生です。
投擲は先日、3セッションにわたる強化練習を終えたばかりです。強化練ってこんなきつかったのかと、しみじみ思う今日この頃です。このメニューを作ったのは、ハンマーパート長の朴承韓(フルネームで言いたくなる)、投擲ブロック長の山口です。二人の学群ラストシーズンの活躍に期待してください。

体は満身創痍ですが、脳みそはどうやらまだギリギリで機能するようです。
卒業を今月に控えたこの時期に執筆の機会をいただきました。ありがとうございます。早いもので、もう卒業です。
今年度は、例年より早い日本インカレの開催、就活、卒論、デフリンピック等々、いろいろありました。ここ近年の日本インカレは熊谷、等々力と関東で行われていたので、久々のインカレ遠征でした。卒業論文ではスポーツ政策学研究室に所属しており論文を執筆しました。内容は割愛します。
そして今年度最後の大会にして、4年間の集大成でもあったデフリンピックでは、自己ベストを更新し優勝することができました。応援してくださった皆さん、本当にありがとうございました。

今振り返ると、この4年間は決して順風満帆なものではありませんでした。
今回の執筆は2度目になります。リベンジのつもりで書きたいところではありますが、卒業、卒部が間近なので、私という部員一人のヒストリーを共有できたらと思います。
インカレで勝つためにチームとしての意識を高めようといった部内の雰囲気がありますが、個人競技である陸上競技で「チーム」というものが、私にはどこか実感として掴みきれていませんでした。
しかしデフリンピックを通して壮行会が行われたとき、同級生からのメッセージカードや、研究室のメンバーからのメッセージ入りタオルなどをもらいました。読んでみると、顔は知っているけれど話したことのない部員からのメッセージも多数あり、「みんなは一人のために」という言葉の意味を、初めて実感した気がしました。それと同時に、自分のコミュニケーションの少なさを実感し、少し悔しくも感じました。
私の学生生活を振り返ると、約4年前の2022年度に入学し、1人暮らしを始めました。コロナ禍の真っ最中でした。対面で授業をする機会も少なかったと記憶しています。
小学校では地域の区立小学校に通っていましたが、まだ小学生だったのでコミュニケーションに困ることはあれど、さほど重大な問題ではありませんでした。しかし高学年になるにつれて、授業の情報保障という意味でついていけなくなりました。
して中学校、高校と都立の聴覚特別支援学校(ろう学校)に通いました。当然、周囲は聴こえない、聴こえにくい友人のみでした。当時は手話も分からずこちらでもコミュニケーションに困った記憶がありますが、すぐに習得し、それ以降は困ることはありませんでした。授業での情報保障に困ることなく、スポーツにも勉強にも打ち込めました。
のような環境で、コミュニケーションには何不自由ない環境で6年間過ごしました。しかし、そのような人との関わりが限られた世界にいた私は、「聴こえない人は聴こえる人にスポーツで勝つことはできない」という先入観を強く持つようになっていました。
ろう学校の学生は、それぞれの部活の聾大会と健常者の大会の双方に出場します。しかし、聾大会では圧倒的な勝利を収めても、健常者の大会では地区予選で敗退することが当たり前でした。
もちろん理由を挙げれば、障がい、ろう学校の学生数、指導者の専門性、設備、コーチングの際に得られる情報量の差など、挙げればきりがありません。その現実を目の当たりにし、私も好きなスポーツではきっとそこまでしか行けないのだろうと思い込んでいました。
しかし、そんな私の考えを大きく変える出会いがありました。
それが、同じ聴覚障がいを持つ筑波大学の先輩でもある森本さんでした。インターハイ、関東インカレ、インカレと入賞され、日本選手権にも出場されている方です。
森本さんの存在は、私の中に長くあった「聴こえない人は勝てない」という先入観を、静かに、しかし確実に崩していきました。
本格的にハンマー投を始めたのは高校2年生の秋でした。無事インターハイ出場が決まったとき、私の中の先入観は完全に消えました。このまま健常者と対等に戦えるように、いや、その中でも勝てるようになりたい。そう思うようになりました。
部活に打ち込める環境、そして授業の情報保障が整っている環境を求めて、私は筑波大学を志すようになりました。
小学校で聞こえている学校に通っていたから大丈夫だろう、という少し楽観的な気持ちで筑波大学に飛び込みました。

しかし、現実はそう甘くありませんでした。
コロナ禍によるコミュニケーションの制限や、自分自身の引っ込み思案な性格は、周囲と打ち解けるための大きな障壁となりました。
さらに、大学の近くには筑波技術大学という視覚・聴覚障がい者のための大学があり、そこに通う友人と大学生活の話をした際の環境の違いが、私の心に追い討ちをかけました。1人暮らしで家族に相談できる環境もありませんでした。
そのような状況で9月頃までなんとか過ごしていましたが、全日本インカレの4日間が、私にとって大きな転機となりました。
インカレは見ていて楽しい大会でした。しかし聴こえにくいことによって応援や歌、リズムが分からず、チームの一員として馴染めていない現実を突きつけられたような気がしたのです。
当初は気持ちを立て直すために1週間ほどの休みをいただいたつもりでした。しかし気が付けば、翌年の8月まで部活に行かなくなっていました。
それでもハンマー投の練習だけは続けていたので、今思えば、単に集団から逃げていただけだったのかもしれません。
最初の頃は気楽で良かったものの、時間が経つにつれて、自分で選んだ道にも関わらず学生生活を無駄にしているという感覚と、苦しい現実に向き合わず逃げているという罪悪感に苛まれるようになりました。
そんな自分に対して強い嫌悪感を抱いたことを、今でもはっきり覚えています。
授業で陸上部の学生とは顔を合わせるので、なおさらそう感じていました。
そこで友人や先輩、監督に相談し、急遽部活に戻ることを決めました。すでに下級生が入部している時期でしたが、ブロックのみんなが快く迎えてくれたおかげで、自然と戻ることができました。
あれから一度も休むことなく部活を続けることができたのは、そのおかげだと思います。
復帰したばかりの試合で3mほど自己ベストを更新し、さらに競技に向き合う気持ちも強くなりました。そこからは平穏な日々が続き、なぜあの時、あれほどまでに苦しんでいたのか分からなくなるほど、素晴らしいブロックの仲間に恵まれていることを実感しました。
そして2025年、大学4年間の集大成として迎えたデフリンピックでは、今まで経験したことのないほどの応援を部員のみんなからいただきました。

その瞬間、言葉では表せないほどの感動とともに、私はようやく気づきました。
これが、チームなのだと。
この筑波大学陸上競技部には、私だけではなく、何人もの障がいを持つ先輩方が卒業されてきた歴史があります。私はその先輩方が築いてきたレガシーと、同じ時代をともにした部員のみんなに支えられて、4年間の部活動を続けることができたのだと改めて感じています。
私自身、現在、陸上競技部では唯一の聴覚障がいを持つ部員として、自分にしか果たせない役割を担いながら、自分なりに発信を続けてきたつもりです。
この陸上競技部の強みは、互いの価値観を認め合い、障がいや国籍、競技力といった垣根を越えてつながることができるチームであることだと思います。
そして、それこそが開かれた大学である筑波大学の姿であり、陸上競技部もまた、その門戸を広く開き、多様な人を受け入れているところに価値があるのだと私は思います。
投擲ブロック4年 遠山莉生