卒業まで、残り2か月。
いつも自転車で通っていた道、友達の家、毎日いた競技場。
4年間で当たり前になったこの景色から離れなければならないと思うと、
寂しさがこみ上げてきます。
私にとってこの4年間は、どのような時間だったのか。
言葉にすることなく、ここまで来てしまいました。
そんなときにこの依頼を受け、今、こうして書き綴っています。
きれいな結果や、かっこいい言葉ではなく、
私自身が陸上とどう向き合ってきたのか。
そしてこの文章を書くことで、
私自身も胸を張って次に進めるものにしたい。
だからこそ、ありのままの自分を書こうと思います。
私は小学3年生から陸上を始めました。
最初は、とにかく走ることが好きで、それだけでした。
気づけば記録が伸びる喜びを知り、
陸上は生活の中心となり、
いつの間にか自分の一部のような存在になっていました。
「日本一になりたい」
そんな夢を掲げるようになり、
筑波で陸上を続けることを選びました。

(入学式)
しかし大学で競技を続ける中で、
「なぜ私は筑波で陸上をしているのか」
自分で選んだはずなのに、その答えがわからなくなる日がありました。
陸上が嫌いになりそうになったこともあります。
試合に出たくないと思った日もありました。
そんな苦しかった時期、
今でもはっきり覚えている試合があります。
大学2年生の関東インカレです。
後輩が入ってきて、筑波の先輩として
かっこいい姿を見せたい、そんな気持ちがありました。
しかし結果は3m50。15位。
あっけなく試合は終わってしまいました。
「自分は、こんな記録しか跳べないのか」
マットを降りた瞬間、
足に力が入らなくなるほどの苦しさを感じたことを、
今でも鮮明に覚えています。
その後の応援に回った期間、
同期や仲間の活躍は、本来なら心から喜べるはずのものでした。
それでも当時の私には、
その輝かしさがただ心に突き刺さるばかりで、
競技場にいながら、時間がとても長く感じられました。
(関東IC2023)
筑波に入学し競技部に入った私は、
次第に
「自分のためだけでなく、人のためにできる人間になりたい」
そう思うようになりました。
後輩のために、チームのために、
何かできることはないか。
いろいろなことに挑戦しましたが、
うまくいかないことばかりでした。
人を支えることの難しさを知りました。
それでも、不思議とやりがいを感じていたのも事実です。
それが競技からの逃げだったのかは、
今でもわかりません。
ただ、人のために動き、
「ありがとう」「助かりました」
そう言ってもらえた瞬間は、
競技で結果が出ず、自信を失っていた私にとって、
確かに救いでした。
そこから私は、
記録を残すことだけでなく、
私が精一杯やる姿を喜んでくれる人のために、
とにかく最後までやり遂げようと思うようになりました。
怖くて何もできなかった頃に比べると、
試合に出ることも、
外で練習をすることも、
厳しい言葉をもらうことも、
少しずつ受け止められるようになったと思います。
努力を向ける矛先が、
少し増えたような感覚がありました。
周りの人からはよく、
「試合でいつも楽しそう」
「こんなに陸上が好きな人はいない」
そんな言葉をかけてもらいました。
今だから言えますが、
試合を心から楽しいと思えたのは、
本当に一握りでした。
自信がなく、怖いときは、
そんな気持ちが周りに伝わらないよう、
必死でした。
そんなとき、先輩から言われた言葉があります。
「選ばれた人しか味わえない緊張なんだから、
それすらも幸せだと思う」
また、同期には
「試合に出たくないなら出なくていい。
いつも頑張っている事実は消えない」
そう言ってもらいました。
私は、努力が無駄になることが
怖かったのだと思います。
勝負の世界で、
勝つことばかりにこだわり続ける環境に
疲れてしまっていたのかもしれません。
または、周りからの期待を、
必要以上に背負い込んでいたのかもしれません。

(日本IC2025)
それでもやっぱり、
もっと高く跳びたかった。
記録こそが、
努力が報われた最高の証だと思っていたからです。
だから、自分のために陸上をやるべき。
でも、誰かの記憶に残る選手でいることの方が、私が求める姿な気がした。
その葛藤の中で、
自分の競技も、後輩との関わり方も、
中途半端になってしまい、
悩む日もありました。
しかし、結果的には、
応援される選手になることが私の目指す姿であり、
そのためには、どちらも大切だったのだと思います。

(最後の筑大競に出場した日)
ここまで、私の苦悩ばかりを書いてきましたが、
もちろん、幸せな時間もたくさんありました。
インカレで、
ピットから見た応援席の景色は、
今でもはっきりと思い出せるほど、
胸がいっぱいになるものでした。

(ポールメンが作ってくれたボード)
ずっと、ずっと出たかった日本選手権に
立てたことも、
私にとっては、確かな幸せでした。
2年ぶりに自己ベストを更新したとき、
その瞬間を、
自分以上に喜んでくれる人たちがいて、
あの景色は、今でも忘れられない私の宝物です。

(PB更新した瞬間)
そして、4年生の日本インカレで、
女子総合優勝を成し遂げられたこと。
その瞬間に見た、
同期の嬉しそうな顔や、
どこか安心したような表情を見て、
私たちは、この4年間を一緒に頑張ってきたのだと、
強く実感しました。

(日本IC2025閉会式)
振り返ると、
苦しかった記憶と同じくらい、
本当にたくさんの「幸せな景色」が、
この4年間には残っていました。
引退した今、
はっきりと言えることがあります。
陸上を続けたこと、
筑波という地を選んだことに、
後悔はありません。
4年間のすべての出会い、葛藤、失敗・成功が、
今の私をつくってくれました。
ただ一つだけ、
後悔が残っています。
入学当初から掲げていた
「4m」を跳べなかったことです。
この目標は、時に私を苦しめました。
それでも、同期や先生、仲間は
最後まで諦めずに応援してくれました。
その存在が、私の支えでした。
そして、誰よりも応援し続けてくれたのは
両親でした。
母に言われた
「いつ4mを跳んでも、その瞬間を見られるように、
どんな試合も見に行く」
この言葉で、
私はただ応援されているだけなのだと気づきました。
両親の前で4mを跳ぶ姿を
見せられなかったことは、
今でも心に残っています。
でも、この初めての後悔があるからこそ、
これからの人生を、
前を向いて強く生きていけると思っています。
最後に、後輩に向けて、
私が伝えたいことを三つだけ残します。
一つ目。
陸上が好きでも、
苦しくなる瞬間は必ずあるということ。
二つ目。
結果が出ない時間にも、
必ず意味があるということ。
三つ目。
誰かのために動いた時間が、
自分を救ってくれることもあるということ。
そして…
跳躍の同期のみんな!
みんなは、私が弱くなれる、甘えられる場所でした。
また集まろうね。

ポールメン!
これからも自分たちらしく。
ポールが大好きな集団でいてください。

同期のみんな~
どんな時も味方でいてくれてありがとう。
これからも、それぞれの道で頑張ろう。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
競技部のみんなが、それぞれの場所で、自分らしく前に進めますように。
これからも、ずっと応援しています。