【十人桐色2026】#41「End of the day」渡辺大星

こんにちは。男子長距離ブロック4年の渡辺大星です。

この度は、筑波大学陸上競技部『十人桐色』を執筆させていただける貴重な機会をいただき、本当にありがとうございます。

拙い文章ではありますが、最後までお付き合いいただけますと幸いです。

知らない方も多いかと思いますので、まずは私の自己紹介と、これまでの生い立ちについて簡単にお話しさせてください。

原点

私は愛知県豊橋市で生まれ、育ちました。豊橋市は、新幹線が止まる利便性がありながら、豊かな海も山もある、まさに「都会と田舎のいいとこどり」をしたようなとても魅力的な街です。某格闘家の影響で治安の悪い地域だと思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも現在はそんなことはありません。

小学校時代は、サッカー、水泳、習字と、色々な習い事をしていました。水泳は小学4年生の時にやめてしまったので人並みの技術しかありません。一方、習字は高校生になっても通い続け、実は師範の資格を取得しました。密かに「老後は習字教室を開くのもいいな」なんて楽しみにしていたのですが、もう何年も筆を握っていないため、今ではおそらく上手く書けなくなってしまっていると思います。

そんな小学生の私が1番熱中していたのは、サッカーでした。当時は本気でサッカー選手になることを夢見て、毎日ボールを追いかけていました。今振り返ると、私が陸上競技をやる上での基礎的な身体能力や体力がついたのは、間違いなくこのサッカーのおかげだと感じています。ただ、サッカーだけでなく走ることも好きでした。陸上クラブに入っていたわけでもなく、専門的な指導を受けていたわけでもありませんが、校内のマラソン大会が近づくと、父親が1キロほどの距離を一緒に走って練習に付き合ってくれていました。「なぜ今、陸上をやっているのか?」と聞かれても、明確な答えは持っていませんが、当時は自分よりも圧倒的に足が速かった父親に憧れ、「いつか父親よりも速くなりたい」という思いと、この経験が心の中にあったのだと思います。父は決してエリートランナーではなく、年に一度、市のハーフマラソンに出場するくらいの市民ランナーでしたが、当時の僕にとっては誰よりもカッコよく、大きな目標でした。

陸上との本格的な出会い、そして高校時代

中学校に進学すると、本格的に陸上競技を始めました。中学校にサッカー部がなかったこともあり、迷うことなく陸上部への入部を決めました。デビュー戦は100mと1500mで、そこから初めて出場した県大会の1500mで入賞することができ、その成功体験からだんだんと陸上の奥深い世界にのめり込んでいきました。中学の陸上部には、市内でも有名な顧問の先生がいて、当時の僕たちよりもダントツで走るのが速く、正直大学4年生になった今でも勝てるか分かりません……。そんな素晴らしい先生の熱心なご指導のおかげで、中学3年生の時には800mで全中に出場することができました。出場を決めた瞬間に自分以上に喜んでくれた家族を見て嬉しくなったことを今でも覚えています。全中では目標にしていた8位入賞には届きませんでしたが、本当に良い思い出です。もしこの全中という舞台を経験していなければ、高校でも陸上を続けていたかどうかは怪しいな、と今でも思います。

高校は、地元の時習館高校に進学しました。校名からよく私立だと誤解されますが、県立の学校で、噂によると「公立高校で全校一位の敷地面積」を誇るそうです。(調べてもデータが出てこないので真偽のほどは定かではありませんが……)。基本的に生徒の自主性を重んじる放任主義のスタイルで、メニューも自分たちで考えていました。練習環境は土トラックでしたが、広大な敷地のおかげで、毎日のびのびと気持ちよく練習に励むことができました。

顧問の先生や先輩方には本当に可愛がっていただき、1年生の時からインターハイの付き添いメンバーとして大舞台に連れて行ってもらいました。高校時代も800mを中心に走っていましたが、残念ながら私自身はインターハイの切符を掴むことはできませんでした。今思えば、コロナもあり、いくらでも楽をすることができる環境に甘え、そこまで練習にのめり込めていたわけではなかったのかもしれません。それでも、仲間たちと切磋琢磨した日々は本当に楽しかったです。

長距離への挑戦と、筑波での恵まれた日々

大学に進学するにあたり、私は大きな決断をしました。それまでの中距離から、長距離への挑戦です。 自分自身、高校時代に5000mを走ったこともなく、かなり珍しいケースだったと思います。(入部させてくれた当時の監督、主将には本当に感謝しています。)そんな状態でも、得意種目を捨ててまでこの筑波大学で走りたいと思わされたのは、やはり「箱根駅伝」の存在が大きかったからです。あの舞台に立ちたいという強い憧れが、私を突き動かしました。

現在、私たちは「箱根駅伝出場」という目標を掲げ、10月の予選会に向けて日々厳しいトレーニングを積んでいます。大学としての箱根駅伝への最後の出場は2020年。そこから少し本戦の舞台から遠ざかってしまっているのが現状です。

私たちの競技生活は、本当に多くの人に支えられています。特にありがたいのは、栄養学研究室の大学院生の皆さんが、私たちのために毎日夕食を作ってくださることです。栄養バランスが計算し尽くされた美味しい食事を毎日いただける、これ以上ないほど恵まれた環境に心から感謝しています。 ちなみに、朝食は自分たちで自炊をしています。

↑朝食作りの様子

↑学生だけで作るのでたまに失敗もありますが、、、

現在の男子長距離ブロックの4年生(同期)は8人います。個性はみんなバラバラですが、バランスが良く、本当に最高の学年です。

また、私たちが入学した当時の4年生には、現在も実業団の最前線で活躍され、日本代表としてハーフマラソンにも出場された平山さんがいらっしゃいました。

偉大な先輩、そして最高の同期に恵まれたことは、私の財産です。 今でも同期には毎日助けられています。

夕食の後にみんなで他愛もない話を始めると、楽しすぎて会話が止まらなくなり、気づけば夜遅くなってしまうこともたまにあります……(それでも、競技者として22時には就寝できるよう、みんな必死に努力しています!)。

↑同期のみんな

苦悩の3年間と、ラストイヤーの関東インカレ

先ほど「箱根駅伝を目指して練習している」と書きましたが、偉そうなことを言える立場ではありません。私自身、過去3年間は、その選手選考のスタートラインにすら立てていませんでした。 1年目、2年目の夏合宿では大腿骨の疲労骨折や腸腰筋の肉離れを起こし、昨年は春先から全く調子が上がらず、練習しても全く成長しない、まさにどん底と言えるような苦しい一年を過ごしました。かといって、トラックシーズンで満足のいく成績を残せたわけでもなく、度重なる怪我による離脱のせいで、まともにシーズンを通して試合に出場できたことは一度もありませんでした。

そして、気づけばもう4年目。泣いても笑ってもラストイヤーになってしまいました。 今年の冬季練習の段階で、私は「今年はインカレと箱根、どちらの舞台にも這い上がる」という目標を立てました。2月に膝の怪我があり、目標通りの練習を積むことはできませんでしたが、それでも諦めずにリハビリと練習を続け、春先にはハーフマラソンを走り切り、4年目にしてようやく初めて、チームのみんなと同じタイミングでシーズンインを迎えることができました。

ただ、関東インカレの標準記録を切れておらず、チャンスは5月の選考会のわずか1回だけでした。ハーフマラソンのロード練習から、急激にスピードが求められるトラック練習へと毛色が変わったことで、最初は一回一回の反動も大きく、適応にかなり苦戦しました。しかし、監督が数週間ほど別メニューを組んでくださり、そのおかげでなんとかインカレの出場権を掴み取ることができました。1回きりのチャンスということもありプレッシャーは凄まじかったですが、やってきた練習を信じていたので、自信を持って走ることができました。

↑インカレまで一緒に練習してくれた海瑠君(写真左。ちなみに中学から知り合いです。)

選考会を突破してからの2週間ちょっと、インカレ本番に向けてさらに集中して練習を積み、状態は選考会の時よりも断然良く、過去最高の仕上がりでインカレの舞台に臨むことができました。 しかし、現実は甘くなく、実際にインカレの舞台で走ってみて、他大学のトップ選手たちとの間にある、埋めがたい圧倒的な実力差を痛いほど思い知らされました。大学の代表として選んでいただきながら、あのような不甲斐ない走りをしてしまったこと、チームに貢献できなかったことは、今でも申し訳なさと悔しさで胸が一杯になります。「来年こそはリベンジする」と言えないことが、本当に残念でなりません。

私個人としては悔しい結果に終わってしまいましたが、チームとしては関東インカレで女子総合優勝、男子総合3位という本当に素晴らしい、歴史的な結果を残すことができました。仲間たちの輝かしい活躍を間近で見て、改めて「この素晴らしいチーム、そして最高の環境で競技ができている私はなんて幸せ者なのだろう」と心から実感しました。

↑関東インカレ閉会式にて

「一瞬一瞬」の重み

この4年間の、特に今回のインカレでの経験を通して、皆さんに伝えられることがあるとすれば、それは、「一瞬一瞬を大切にしてほしい」ということです。

先ほども少し触れましたが、私は過去3年間、度重なる怪我により、インカレに出場するどころか、挑戦するという機会すらありませんでした。周りの仲間たちが当たり前のように目標に向かって挑戦していく中、自分にはスタートラインに立つ権利すらない。その現実は、言葉にできないほど悔しく、苦しいものでした。

だからこそ、4年目にしてようやく巡ってきた「たった1回の選考会」というチャンスの重みを、私は誰よりも強く感じていました。

チャンスというものは、いつ、どのような形で自分に回ってくるか本当に分かりません。明日突然巡ってくるかもしれないし、私のように何年も待たなければならないかもしれない。そして、もしその時に準備ができていなければ、チャンスは無情にも目の前を通り過ぎてしまいます。

もちろんチャンスは待つものではなく自ら作るものですが、いざ、その1回きりのチャンスがやってきた時、確かな自信を持ってスタートラインに立ち、その機会を確実に掴み取れるかどうか。それは、普段の何気ないジョグや補強、日々の食事やケアなど、毎日の「一瞬一瞬」をどれだけ大切に、そして真剣に積み重ねてきたかに懸かっているのだと思います。

今回タイトルにも選んだ私の大好きなMr.Childrenの「End of the day」のサビには、こう歌われています。

「あと一歩のところまで きっと来てる」

いま怪我で苦しんでいる人、思うような結果が出ずに悩んでいる人もいると思います。努力しているはずなのに、1日1日は昨日と何も変わらず、少しも前に進んでいないと感じるかもしれません。でも、いつか来るであろう、その時のために、決して腐らず、今自分にできることに全力で向き合ってほしいです。目標を達成するためには、結局のところ、そのありふれた日々の積み重ねでしか道は拓けないと私は思っています。

教育実習、そして「やるか、やらないか」

インカレが閉幕した翌日から、私は母校で3週間の教育実習を行いました。実習先では本当にクラスの生徒たちに恵まれ、毎日が新鮮で楽しく、あっという間に3週間が過ぎ去っていきました。(生徒たちから苦手な食べ物を聞かれて「野菜」と答えたところ、実習最終日に生徒みんなから「野菜で作られた花束」をプレゼントされました(笑)。不意を突かれた最高のサプライズで、少し複雑な気持ちになりつつも、本当に嬉しかったです。)

人前に立って話すことの難しさや、自分が考えていることを相手に分かりやすく伝えるための言語化能力など、教育実習で得た経験は、今後の人生の大きな糧となる、非常に有意義で素晴らしい時間でした。

教育実習を終えて大学に帰ってきてからは、いよいよ10月の箱根駅伝予選会に向けた本格的な強化練習が始まっています。長距離ブロックを率いる木路監督は、この時期になるといつも私たちにこう問いかけます。

「やるか、やらないかで生き残って行くだけ」

本当にその通りだと思います。私にとって、これが人生で最後の箱根駅伝のチャンスです。本戦の切符を掴み取るためなら、どんな犠牲を払ってでも、文字通り「やる」しかありません。言い訳をしている時間はもう残されていません。

予選会に向けて、残りの日数はついに100日を切りました。後輩たちに「一瞬一瞬を大切に」と伝えたからには、私自身が誰よりもその言葉を体現しなければなりません。これまでの陸上人生のすべてをかけて、残りの期間を1ミリの後悔も残さないよう走り抜き、自信に満ち溢れた状態で予選会のスタートラインに立てるよう、全力で頑張っていきます。

最後になりますが、これまで私を支えてくださった家族、監督、スタッフ、研究室の皆様、先輩、後輩、そしてどんな時も隣で苦楽を共にしてくれた最高の同期たちに、この場を借りて深く感謝申し上げます。

長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただき本当にありがとうございました。

今後とも、筑波大学陸上競技部への温かいご声援をよろしくお願いいたします!