【十人桐色2026】#40「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」渡邉瑛斗

こんにちは。 跳躍混成ブロック4年の渡邉瑛斗です。 「十人桐色」を執筆させていただける貴重な機会をいただき、ありがとうございます。

今回執筆するにあたって、自分に何が伝えられるか少し考えたのですが、見栄を張ってかっこいい文章を書いたとしても、誰のためにもならない気がしました。そのため、自分のこれまでの経験と考え方について、等身大でお話ししたいと思います。

まずは簡単に自己紹介をさせていただきます。 関西弁の主張が弱いせいかあまり認識されていませんが、出身は大阪府大阪市です。小学校3年生から6年生まではサッカー少年でしたが、東我孫子中学校で陸上競技部に入部。グラウンドで先輩が棒高跳びをする姿に憧れて、専門種目を棒高跳びへと希望しました。

(中学1年生のほっそりした渡邉)

はじめは自分の身長すら跳べないくらいだったのに、跳べる高さが上がるにつれて棒が曲がるようになり、独特の浮遊感を味わえるようになって、棒高跳びの楽しさにどんどんのめり込んでいきました。 高校進学の際には、大好きな棒高跳びで「日本一を取る」と決意し、大塚高校体育科への進学を決めました。

日本一までの道のりは決して楽なものではなく、きつい練習で心が折れそうになる時や、怪我や不調で伸び悩む時期もありました。しかし、ともに高い目標を持ち励まし合える仲間やライバル、熱意を持って指導してくださる恩師、そして愚痴をこぼすような日にも温かいご飯を作ってサポートしてくれた母や、どんな試合でも足を運んで見に来てくれた父など、様々な人のおかげで高校3年生の夏、徳島インターハイで優勝することができました。

(徳島インターハイの表彰後の渡邉)

高校生日本一の景色を味わった私は、欲張りなことに全カテゴリーを含めた日本一、そしてその先にある世界を目指したいと思い、筑波大学への進学を決めました。

ここからの大学での競技生活を私の十人桐色の本題としたいと思います。

まだシーズンは終わっていませんが、大学でのこれまでの成績としては、今回この十人桐色を執筆させていただくきっかけとなった関東インカレでの優勝、そして日本選手権6位といった結果を残すことができました。

この結果に関しても、私に関わってくださった多くの方々のおかげだと心から感じています。応援やサポート等、本当にありがとうございました。

決して現状に満足していい結果ではありませんが、昨シーズンからすると確かな成長を実感することができ、着実に前に進めていると感じています。

今でこそやっとベストを出せる状態になりましたが、大学での競技生活は総じて苦しいものでした。

高校3年で日本一になった自分とは一変して、大学1年目から記録に伸び悩み、自己ベストタイすら跳べない時間が約2年半も続きました。

この背景には、環境の変化が大きかったと感じています。 初めてとなる一人暮らし、指導方針の違い、高い目標を掲げながらも達成できないことからストレスを感じ、さらに上手くいかなくなる悪循環。そして極めつけは、度重なる怪我でした。

大学1年の頃の私は、跳躍ブロックコーチの木越先生に「自分はどうすれば16.5fのポールを使って5m60くらい跳べますか?」と聞きました。今思えば、浅はかで何の思考もない質問でした。

返ってきた言葉は、「考えろ!」でした。

高校時代、一本跳躍するたびに何かしらの助言をもらえていた自分は、そんな環境からの変化を求め、「自分で考えて陸上をする環境」かつ「自分が成長するための答えがそこにあるだろう」といった漠然としたイメージを持って筑波大学を選びました。

しかし、当時の私は「考える」ということの本当の意味を理解していなかったようで、質問をすることで「考えているつもり」になっていただけでした。

その裏には、記録向上に繋がる主体的な思考はほとんど存在せず、ただ「どうしたら跳べるのか、答えを教えてほしい」という甘えがあったのだと思います。そんな当時の自分にとって、「考えろ!」という言葉は、「わからんねん!」と投げ出したくなるようなものでした。

そんな感じで何をしたら良いのか、メニューの組み立て方すら分からなくなってしまった自分は、高校時代の練習をなぞったり、先輩のメニューに混ざったりといった、その場しのぎの計画とも言えないような練習・試合計画で大学1年生を過ごします。その結果、高校3年の冬から抱えていたジャンパー膝とも上手く付き合うことができず、思い切って跳ぶことができない1年間となりました。

(憧れと尊敬の先輩2人と初めて出た関東インカレ)

その後、コーチや先輩とのコミュニケーション、そして自身の失敗経験を基に、少しずつ考えるとはどういうことかを知るようになりました。漠然とした理想の自分を目指すのではなく、自身の現状に謙虚に向き合って、足りないことや必要なことを模索するようになったのです。

具体的には、手段と目的が混同してしまわないようにすることや、長期的な計画・短期的な目標を立てることの重要性を学びました。ここで初めて、成長への近道なんてものはないんだと実感しました。

高校生の頃から一歩成長できたのでは、と思った矢先、大学2年の春の跳躍練習で、今度は腰に痛みが出るようになりました。「筋肉痛くらいだろう」と軽く見ていたら、まともに跳ぶことができないほどの痛みになっていき、検査の結果、腰椎分離症だということが発覚しました。

医師との相談の結果、「治る見込みがあるから、将来のためにも約3ヶ月は安静にする」という処置をとることになりました。1年以上ベストが出せていないことに焦りを感じていた自分にとっては、到底受け入れがたい事実であり、上手くいかない苦しさから「もう辞めてしまおうか」とも思いました。

3ヶ月が経って動けるようになっても、強くなるための練習ではなく、まずは元の状態に戻す練習からのスタートでした。走れなくなるほどの大きな怪我をしたのが初めてだった自分にとって、それは長く険しい日々となりました。

焦りを抱えたまま目の前の試合にいっぱいいっぱいになった結果、またしても高校時代の自己ベストタイを超えることなく、そのシーズンが終わりました。

大学1年目からここまで上手くいかないこと続きで、本当に嫌になりそうでしたが、あるとき、一つの大きな気持ちの変化がありました。

それは、怪我から復帰して、久しぶりに跳躍をすることができた日のことです。

記録や怪我への焦り、ストレスを抱え続ける中で、久しぶりにできた跳躍は、短い助走で、低い握り、中学時代のベストよりも低い高さのバーでした。

それなのに、その跳躍をした瞬間、自分は「ただひたすらに跳ぶことが楽しい、もっと跳びたい」と心から感じたのです。

そこで、自分が棒高跳びをしていた本当の理由に気づかされました。

それは、「結果を出したいから」ではなく、ただ「棒高跳びが好きでたまらないから」であり、「もっと高く跳べるようになりたい、高く跳べるようになっていくのが楽しいから」やっていたのだ、という原点でした。

この感覚を思い出せたことは、怪我をしたことで得られた最大の収穫だと思います。

結果に囚われるあまり、その成長の「過程」に焦点を当てることができていなかった自分にとって、考え方を大きく改める転機となりました。

日本一や世界といった目標は、棒高跳びが成長していく過程が楽しくて夢中になっているうちに、後からついてくるもの。目標はもちろん大事だけれど、その原点にある「楽しさ」を見失ってはいけないと強く思いました。

私の好きな言葉に、孔子の教えを由来とした「努力する者は楽しむ者に勝てない」という言葉があります。

これは決して努力を馬鹿にしているわけではありません。やっていること自体を楽しんでいる人は、自発的な好奇心をもとに、主体的な学びや工夫、そして何より折れない継続力を持っているからこそ最強なのだ、という意味だと私は解釈しています。

結果に囚われず過程を楽しむことができれば、自ずと自分と向き合い、思考を巡らせることにも繋がり、最終的には結果の向上も見込める。今ではそう確信しています。

「どうしたら高く跳べるようになりますか?」と質問するだけだった自分が、どうしたら跳べるのかを自分自身に問いかけ、向き合い、試行錯誤するようになり、その過程さえも「楽しい」と思えるようになったこと。これこそが、関東インカレ優勝や日本選手権6位という結果を残せるまでに、自分が一番成長した点だと思っています。

(日本選手権でのぎこちないガッツポーズ)

結果にとらわれすぎず、楽しむことを忘れないでほしい。これが、私がこのブログを通して一番伝えたかったメッセージです。

まだまだ、自分が掲げた高い目標には程遠いですが、これからも棒高跳びを楽しみ尽くして、その先にあるそれらの目標が達成できるよう、真摯に競技と向き合っていきたいと思います。

応援よろしくお願いします!

長々とまとまりのない文章になってしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございました。

(大好きなボウタカ仲間たち)