『 「伝えル」こと「捉えル」こと』
こんにちは。暗雲が垂れ込めるような雰囲気の昨今ですが、今回のコラムを担当致します、短距離障害ブロック4年の飯田望見と申します。筑波大学の名の下に表現の機会を与えて頂くことになろうとは入学時分には考えられなかったことですが、私の手前勝手で稚拙な文章にお付き合い頂けると幸いです。
手始めに自己紹介をさせて頂きますと、専門は400mH、陸上競技部内では学生トレーナーを統括する役を務めております体育専門学群生です。
と、ここまでで既に「なんだこの堅苦しい文は。読む気にならんわ」と感じてしまった方もいらっしゃるかもしれません。
例えるならばこのブログのリンクに訪れた方をセメントの塗り壁で出迎えるような文ですが、でもどうかスクロールを止めずにそのまま読み進めてください。
というのも、このコラムでそこらへんに同じようなものがゴロゴロ転がっていそうな私の陸上人生を世間の皆々様に披露したところで面白くもなんともないので、この頃私が自分を含む競技者を見て思う「つたえかた」「とらえかた」について書いてみようと思うからです。
人に何かをツタエヨウトオモウトキ、ナニヲイシキシマスカ?
はなすはやさ、つかうことば、ひょうじょう、しせん、
はたまたZIBUNNNO OMOIWO MATOMERU KOTO, AITENO KANNGAETEIRU KOTOなどでしょうか。
伝える方法は何も言葉だけではなく、アイコンタクト、ボディランゲージや日本人お得意の「空気」、文化によっては食べ物や着る物で意思表示をすることもあります(体育の先生にありがちなワイシャツにウィンドブレーカーは、生徒に親しみを持ってもらうためor体育教師としての威厳を保つためにやっている先生もいるそうです)。
ここまで「つたえる」時に使いそうな要素を列挙してみましたが、別にどこかのビジネス本のようにアイテノネクタイアタリヲミテハナシマショウとか、ケイゴトケンジョウゴニキヲツケマショウとか、ましてや「自分ノ考えヲ的確ニ伝えるタメノ5つノ方法」などを書く気はさらさらありません。
私はたまたま会話よりも文字でものを伝える方が得意なのでこのような場所で饒舌になりますが、人によっては文字より会話の方が、会話より身振り手振りの方が、比喩より擬音語の方がつたえやすい、ということもあると思います。
そして同時に、それらによって「つたえられた」ものを「とらえる」方にも得意不得意はあると思っています。会話じゃうまく飲み込めなくても文字で見ればすんなり入る人、擬音語の方が感覚を掴みやすい人、映像を見るより言葉で言われた方が自分の動きに落とし込める人、様々だと思います。
これらの方法が「つたえる」人と「とらえる」人同士でうまく噛み合った時、初めてつたえたかったものを共有できたと言えるのではないでしょうか。
ここで「だから相手のことを考えてつたえる方法を模索しろよ」とか「相手がつたえたいことを読み取る努力をしろよ」とかいう話で畳むこともできますが、つまり私が言いたいことは
わからなくても、いいんじゃない
ということです。どこかの詩人が墨痕鮮やかに書いていそうな言葉ですが。
ただ、わからないところで思考停止するわけではなく、わからなかったらまた別の「つたえられ」方、「とらえかた」を求めればいいのではないかな、という意味です。
日本語が同じ内容でも表記によって、言葉の種類によって感じ方が違うように、「つたえる」方法が違えば「とらえかた」は異なります。
「コーチの言っていることがどうしてもわからない」「うまい人の動きを見せられても自分が表現することはできない」「自分の動きの感覚をうまく言葉にできず他人と共有できない」
という悩みはスポーツあるあるだと思いますが、これをただ知識がないから、理解力が低いから、身体能力が低いから、と自分の能力のせいにしてしまうのは勿体無いように思うのです。。
かくいう私も、学生トレーナーとして選手と接するときや後輩にトレーナーの手技を教えるとき、また自分がリハビリをしている時はこのようなもどかしさを強く感じます。しかしそこでなるべく多くの「つたえる」方法と「とらえる」方法の選択肢を用意することを意識します。
同じ内容でも自分が「わかる」方法を探し見つければ活路が開けることもあるのではないでしょうか。
このようにつらつらと一部員が己を表現する機会を与えてくれ、競技をする人間が一様ではない様を見せてくれるこの企画と担当者、並びに読者の皆様に敬意を表し、ここいらでお暇いたします。
〇今日のコラム〇
飯田望見(いいだ のぞみ)
体育専門学群 4年
北海道出身
北海道立札幌南高等学校
短距離障害ブロック・400mH
トレーナー委員会